星降る夜の誓い
第一章:時の迷い子
灰色の雲が東京の空を低く覆う、令和7年の秋。天野美咲(あまの みさき)、28歳は、自身のデザインスタジオの窓から、色を失った街並みをぼんやりと眺めていた。アトリエと呼ぶにはあまりに殺風景な、コンクリート打ちっぱなしの小さな一室。壁に貼られたデザイン画はどれも描きかけで、机の上に散らばるワックスの原型は、彼女の迷いそのものを形にしたかのように、中途半端な姿を晒していた。
かつては「期待の新人」ともてはやされた。権威あるジュエリーデザインコンペで大賞を受賞し、卒業後は鳴り物入りで独立。祖父は昭和の時代に名を馳せた宝石職人。その血を受け継ぐ才能と、現代的な感性の融合が評価された。しかし、その輝きは長くは続かなかった。独立して三年、美咲は深いスランプの沼に沈んでいた。
生み出すデザインは、どれも過去の自分の模倣か、あるいは流行の浅い部分をなぞっただけの、魂のない抜け殻のように感じられた。クライアントの要望に応えようとすればするほど、自分の個性が薄まり、何を作りたいのかさえ分からなくなっていく。焦燥感だけが、鉛のように心を重くする。
『美咲のデザインには、物語が足りない』
コンペで審査員長を務めた世界的デザイナーに、パーティーの席で言われた言葉が、今も耳の奥で棘のように突き刺さっていた。物語。そんなものは、どうすれば見つかるというのだろう。
その日も、行き詰まった思考から逃れるようにアトリエを飛び出した美咲は、無意識に足を銀座の裏通りへと向けていた。祖父が愛した街。幼い頃、よく手を引かれて歩いた石畳の路地には、今も古き良き時代の面影が残っている。
ふと、一軒の店の前で足が止まった。蔦の絡まるレンガ造りの建物の、深い青色のドア。そこに掲げられた真鍮のプレートには、流麗な書体で『時の欠片(ときのかけら)』と刻まれている。そこは、知る人ぞ知るアンティークジュエリーの店だった。美咲が学生時代から敬愛し、 mentorship を仰いでいる藤堂環(とうどう たまき)が店主を務める場所だ。
吸い込まれるようにドアを開けると、カラン、と澄んだベルの音が鳴った。店内は、外の喧騒が嘘のような静寂と、古い木と香油の匂いに満ちている。ビロードが敷かれたガラスケースの中では、アールデコ、アールヌーヴォー、ヴィクトリアン、様々な時代を生きたジュエリーたちが、秘めやかな光を放っていた。
「いらっしゃい、美咲さん。嵐にでも遭ったような顔をして」
店の奥から現れた藤堂は、結い上げた髪に銀のかんざしを挿した、粋な和装の女性だった。年齢は50代半ばだろうか。その物静かな瞳は、いつも全てを見透かしているかのように深い。
「環さん……。ちょっと、煮詰まってしまって」
「いつものことね。お茶でも淹れるわ。そこに座って」
藤堂に促されるまま、美咲はベルベットのソファに深く身を沈めた。彼女は何も言わず、ただ黙って藤堂が運んできた白磁のカップを両手で包み込んだ。温かいハーブティーの香りが、ささくれた心を少しだけ解きほぐしていく。
「面白いものがあるのよ。今のあなたに、何かを教えてくれるかもしれない」
そう言って藤堂が奥から持ってきたのは、小さな桐の箱だった。そっと蓋が開けられると、黒いビロードの上に、一つの指輪が横たわっていた。
それは、美咲が今まで見たこともないような、不思議なデザインだった。滑らかな曲線を描く18金ホワイトゴールドのアーム。その片方が、まるで雫が落ちる瞬間を捉えたかのように、ぷっくりと膨らみ、一つの大きな宝石を包み込んでいる。
「これは……」
美咲は思わず息を呑んだ。宝石は、一見するとただの水晶のようだ。しかし、その透明度は尋常ではなく、まるで清らかな水をそのまま固めたかのよう。そして、そのクォーツのドームの中に、まるで星の核のように、大粒のダイヤモンドが封じ込められていた。ダイヤモンドは、周囲の光を貪欲に吸い込み、クォーツの中で複雑な煌めきを放っている。まるで、氷の中に閉じ込められた、永遠の炎。
「モーブッサンのリングよ。おそらく1970年代の作品。ある方の遺品整理で、うちに来たのだけれど」
藤堂は静かに言った。美咲は許可を得て、そっと指輪を手に取った。ずしりとした重み。9.91グラムという数字が頭をよぎる。内側には『MAUBOUSSIN』の刻印がはっきりと見て取れた。しかし、その輝きはどこか曇っていた。ホワイトゴールドの表面には無数の細かい傷が入り、クォーツにも僅かな欠けがある。そして何より、主役であるはずのダイヤモンドが、本来の輝きを失っているように見えた。まるで、深い悲しみを吸い込んで、光を放つことをやめてしまったかのように。
「この指輪ね、泣いているのよ」と藤堂が言った。
「泣いてる……?」
「ええ。持ち主の強い想いを吸いすぎて、息ができなくなっている。だから、本来の輝きを失ってしまったの。まるで、今のあなたみたいにね」
藤堂の言葉に、美咲はどきりとした。
「美咲さん、あなたにお願いがあるの。この指輪の修復と……リデザインをお願いできないかしら」
「リデザイン? こんな歴史のある作品を、私が?」
「ええ。ただ綺麗にするだけでは、この指輪は目を覚まさない。この指輪が宿している『物語』をあなたが読み解き、新しい息吹を与えてほしいの。今のあなたにしか、できない仕事だと思うわ」
藤堂の真剣な眼差しに、美咲は言葉を失った。スランプに陥っている自分に、そんな大役が務まるはずがない。しかし、指輪に触れた指先から、微かな電流のようなものが流れ込んでくるのを感じた。
目を閉じると、脳裏に断片的なイメージが浮かんだ。
―――ライトを浴びて煌めく舞台。フィルムが回る乾いた音。甘く、それでいて少しだけ苦い香水の香り。そして、悲しげに微笑む、美しい女性の横顔。
「……!」
美咲ははっとして目を開けた。幻覚? それとも、この指輪が見せた記憶の断片なのだろうか。
「どうしたの?」
「いえ……なんでもないです」
恐怖と、それ以上に強い好奇心が湧き上がってくるのを感じた。この指輪は、一体誰のものだったのだろう。どんな人生を、どんな想いを、その透明な水晶の中に閉じ込めてきたのだろう。
「やらせて……ください」
気づけば、美咲はそう口にしていた。自信はなかった。しかし、この謎めいた指輪から、目が離せなかった。これが、自分の運命を変える出会いになるかもしれない。そんな予感が、胸の奥で小さな炎のように揺らめいていた。
その夜、アトリエに持ち帰った指輪をデスクライトの下に置き、美咲は改めてそれを観察した。クォーツの直径は10mm、ダイヤモンドの大きさも相当なものだ。モーブッサンらしい、大胆で彫刻的なフォルム。しかし、見れば見るほど、そのデザインにはある種の「未完成さ」を感じた。まるで、何か大切な言葉を言いかけて、途中で口を噤んでしまったかのような。
その時、スマートフォンの着信音が静寂を破った。画面には『西園寺 蓮』の文字。美咲は思わず眉をひそめた。
西園寺蓮(さいおんじ れん)。美咲と同じデザイン学校を首席で卒業し、今やフランスの老舗メゾンでデザイナーとして華々しい活躍を見せる、同い年のライバルだった。彼のデザインは、常に時代の最先端を行き、シャープで論理的。美咲の情緒的な作風とは正反対だった。
「もしもし」
『よう、まだ生きてたか。最近、名前を聞かないから心配してたぜ、天才さん』
相変わらずの、人を食ったような口調。しかし、その声には微かな心配の色が滲んでいるのを、美咲は知っていた。
「余計なお世話よ。こっちは忙しいの」
『ほう? 何をそんなに。まさかまた、道端の石ころの物語でも聞いてるんじゃないだろうな』
蓮は、美咲が素材の持つ「声」や「記憶」をデザインの源泉にすることを、いつも揶揄していた。
「……アンティークリングのリデザインを頼まれたの」
美咲がモーブッサンの指輪のことを話すと、蓮は電話の向こうで呆れたように溜息をついた。
『また古いものか。いい加減、過去に固執するのはやめたらどうだ? ジュエリーは未来を飾るためのものだろう。過去の亡霊に付き合ってる暇があったら、一本でも新しい線を描け。お前の才能が錆びついていくのが、俺は見ていられない』
正論だった。あまりに正論で、美咲はぐうの音も出なかった。蓮の言う通りかもしれない。自分は過去の栄光や、亡き祖父の影ばかりを追いかけて、未来から目を背けているだけなのかもしれない。
「……分かってるわよ」
かろうじてそれだけを言うと、美咲は一方的に電話を切った。受話器を置いた手は、小さく震えていた。
机の上の指輪が、静かにこちらを見ているような気がした。クォーツの中のダイヤモンドが、まるで嘲るかのように、鈍い光を放つ。
『お前に、私の物語が分かるものか』
そんな声が聞こえた気がして、美咲はぎゅっと目を閉じた。
第二章:女優の肖像
指輪の謎を解く鍵は、その元の所有者にある。美咲はまず、藤堂環に連絡を取り、指輪の出所について詳しく尋ねた。
「高遠沙織(たかとお さおり)という女優を知っているかしら」
電話口の藤堂の声は、いつものように穏やかだった。高遠沙織。その名前を聞いて、美咲は記憶の糸をたぐり寄せた。確か、昭和40年代から50年代にかけて絶大な人気を誇った、伝説的な女優だ。ミステリアスな美貌と、翳りのある演技で一世を風靡したが、人気絶頂のさなかに突如引退し、その後は一切公の場に姿を見せなかった。数年前に、ひっそりと亡くなったとニュースで報じられていた。
「この指輪は、彼女の遺品の一つなの。ご親族が整理を依頼された弁護士さんを通じて、私のところに回ってきたのよ」
「高遠沙織……。あの、伝説の……」
「ええ。彼女は生涯独身を通したけれど、一人だけ、深く愛した男性がいたと言われているわ。でも、その恋が実ることはなかった。この指輪はきっと、その方との思い出の品なのでしょう」
藤堂の言葉は、美咲の心に新たな疑問を投げかけた。結ばれなかった恋。その想いが、この指輪を「泣かせて」いるのだろうか。
美咲は、高遠沙織について徹底的に調べ始めた。国立映画アーカイブに足を運び、彼女の出演作を片っ端から観た。スクリーンの中の沙織は、息を呑むほど美しかった。しかし、その華やかな美しさの奥に、常に深い孤独の影が寄り添っているように見えた。特に、彼女の瞳。何かを渇望し、諦め、そして静かに耐え忍んでいるかのような、複雑な光を湛えていた。
次に、当時のゴシップ雑誌や新聞記事を読み漁った。そこには、沙織の恋の相手として、数々の俳優や財界人の名前が挙げられていたが、どれも確証のない噂話ばかり。彼女自身が、プライベートについて語ることはほとんどなかったようだ。
調査は行き詰まった。美咲は再び『時の欠片』を訪れた。
「環さん、高遠沙織の愛した人って、誰なのかご存知なんですか?」
藤堂は静かにお茶を淹れながら、ゆっくりと口を開いた。
「確かなことは言えないわ。でも、当時の映画界を知る人たちの間では、一つの名前が囁かれていた。橘宗一郎(たちばな そういちろう)という、若き日の天才監督よ」
橘宗一郎。その名前もまた、伝説だった。斬新な映像美と、人間の深層心理を鋭くえぐる作風で、数々の映画賞を総なめにした監督。しかし彼もまた、沙織が引退したのとほぼ同時期に、突然メガホンを置いている。以来、四十数年間、一本も映画を撮っていない。
「橘監督は、沙織さんのデビュー作を撮った人。二人は撮影現場で恋に落ちたそうよ。けれど、当時の映画会社はスター女優のスキャンダルを極端に嫌った。それに、橘監督はまだ無名で、家柄も決して良いとは言えなかった。一方の沙織さんは、大物政治家の令嬢だったという噂もあったわ。身分の違い、周囲の反対……二人の前には、あまりに多くの壁が立ちはだかった」
藤堂の話を聞きながら、美咲は指輪に触れた時に見たビジョンを思い出していた。ライトを浴びた舞台、フィルムの回る音。あれは、映画の撮影現場だったのだ。そして、悲しげな女性の横顔は、高遠沙織その人だったに違いない。
「橘監督は、今どこに?」
「さあ……。引退後は、人目を避けるように、鎌倉の海の見える家で静かに暮らしていると聞いたことがあるけれど。もう80歳をとうに超えているはずよ。昔のことを話してくれるかどうか……」
美咲の心は決まった。橘宗一郎に会おう。彼に会って、直接話を聞くしかない。この指輪の物語を知るためには。
数日後、美咲は僅かな手がかりを頼りに、鎌倉の海沿いの古い屋敷を訪ねていた。潮風に晒された木の門は固く閉ざされ、人の気配はない。何度インターホンを鳴らしても、返事はなかった。諦めて帰ろうとした、その時。
「……何の用だ」
背後から、しゃがれた声がした。振り返ると、そこには古びた作務衣を着た、小柄な老人が立っていた。鋭い眼光だけが、かつての天才監督の面影を宿している。橘宗一郎だった。
美咲は深呼吸をして、持参した桐の箱を彼の前に差し出した。
「橘監督……ですよね。私は、天野美咲と申します。ジュエリーデザイナーをしています。この指輪のことで、お話を伺いに来ました」
宗一郎は、美咲の顔と桐の箱を交互に見比べ、怪訝そうに眉をひそめた。しかし、美咲が箱の蓋を開け、中の指輪を見せた瞬間、彼の表情が一変した。険しかった顔が驚愕に変わり、やがて深い哀しみの色に染まっていく。震える手で、彼は指輪をそっとつまみ上げた。
「……なぜ、君がこれを」
「高遠沙織さんのご遺品です。修復を依頼されました」
宗一郎は、指輪を掌に包み込むと、しばらくの間、遠い目をして黙り込んだ。彼の瞳には、涙が薄っすらと浮かんでいるように見えた。
「……入りなさい」
重い沈黙の後、宗一郎はぽつりと言った。
通された書斎は、床から天井まで、膨大な数の本とフィルム缶で埋め尽くされていた。時間の流れが止まったかのような、静謐な空間。宗一郎は、美咲を古い革のソファに座らせると、自らは窓辺の椅子に腰掛け、掌の中の指輪をじっと見つめながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
それは、まるで一篇の映画のように、切なく美しい愛の物語だった。
二人が出会ったのは、宗一郎が監督デビュー作のヒロインを探していた時だった。オーディション会場の隅で、一人静かに本を読んでいた沙織。その他大勢の女優志望者とは明らかに違う、凛とした孤独な空気に、宗一郎は一瞬で心を奪われた。
「彼女は、ダイヤモンドの原石そのものだった。磨けばどこまでも光る。しかし、その奥には誰も触れることのできない、硬い核のような哀しみがあった。私は、その哀しみの正体を知りたくなった。そして、映画監督としてではなく、一人の男として、彼女をその哀しみから救い出したくなったんだ」
撮影が始まると、二人は急速に惹かれ合った。カメラのレンズを通して見つめ合う日々。宗一郎の演出に応え、沙織の才能は爆発的に開花した。そして、撮影所の片隅で、誰にも気づかれないように、二人はそっと愛を育んだ。
「幸せな時間だった。だが、永遠には続かなかった。映画が公開され、沙織は一夜にしてスターになった。途端に、我々の周りには目に見えない壁が築かれていった。映画会社の重役、彼女の家の人間……誰もが、私のような若造から彼女を引き離そうとした」
宗一郎は、一度言葉を切って、窓の外の灰色の海を見つめた。
「ある日、私はけじめをつけようと、なけなしの金をはたいて、この指輪を買った。当時、付き合いのあったフランスの宝石商から、特別に譲ってもらったんだ。モーブッサンの、まだ発表前のプロトタイプだった。クォーツの中にダイヤモンドを閉じ込めるなんて、斬新なデザインだろう? 透明な壁に守られて、誰にも汚されずに永遠に輝き続けるダイヤモンド。それが、私には沙織そのものに見えたんだ」
彼は、その指輪を手に、沙織にプロポーズした。撮影所の裏、星が綺麗に瞬く夜だったという。
「彼女は、泣きながら頷いてくれた。だが……その数日後だ。彼女は、私に黙って、姿を消した」
沙織は、宗一郎の将来を守るために、自ら身を引いたのだ。大物政治家である父親から、「橘宗一郎の映画界での未来を潰すこともできる」と脅された末の、苦渋の決断だった。彼女は宗一郎に一通の手紙だけを残していった。
『あなたを愛しています。だから、さようなら。あなたの才能を、私一人のために縛り付けることはできません。どうか、私のことなど忘れて、素晴らしい映画を作り続けてください。スクリーンの中で、また会える日を信じています』
「それきりだ。私は、彼女を探し回った。だが、どこにもいなかった。そして、彼女が別の男と婚約したという根も葉もないスキャンダルが報じられた。私は、全てに絶望した。彼女のいない世界で、映画を撮る意味など見いだせなかった。だから、メガホンを置いた。それ以来、私は抜け殻のように、この家で過去のフィルムを眺めるだけの人生を送っている」
語り終えた宗一郎の頬を、一筋の涙が伝っていた。美咲は、言葉をかけることができなかった。ただ、胸が締め付けられるような痛みに耐えていた。この指輪には、こんなにも重く、切ない物語が宿っていたのだ。
「それで……この指輪は、どうして彼女の元に?」
「私がプロポーズを断られたのだと思い、自棄になって海に投げ捨てようとしたんだ。それを、撮影所の下働きをしていた青年が見ていて、こっそり拾って、沙織に届けてくれたらしい。ずっと後になって、人づてに聞いた話だ。彼女は、生涯この指輪を大切に身につけていたそうだ。誰にも、その由来を明かすことなく……」
美咲は、改めて手の中の指輪を見つめた。無数の細かい傷は、沙織がどれほどこの指輪を愛し、肌身離さずにつけていたかの証だった。そして、輝きを失ったダイヤモンドは、彼女が流し続けた涙と、宗一郎への叶わぬ想いを吸い込んでしまったかのようだった。
「天野さん、と言ったかな」
宗一郎が、不意に美咲の名前を呼んだ。
「君は、この指輪の声が聞こえるかい?」
「……はい。少しだけ」
「そうか……。ならば、頼みがある。この指輪を、もう一度輝かせてやってはくれまいか。沙織が、天国で安らかに眠れるように。彼女が愛したこの輝きを、取り戻してやってほしい。これは、私からの……最後のラブレターだ」
宗一郎は、深く頭を下げた。かつて一世を風靡した天才監督が、うら若いデザイナーに、愛する女性への想いを託している。その姿に、美咲の心は激しく揺さぶられた。
「分かりました。お引き受けします」
美咲は、はっきりと答えた。もはや、スランプの悩みなど、頭の片隅にもなかった。ただ、この二人の純粋で悲しい愛の物語を、自分の手で形にしたいという、強い衝動に駆られていた。
『物語が足りない』
かつて言われた言葉が、脳裏をよぎる。
―――物語は、ここにある。こんなにも深く、心を打つ物語が。
アトリエに戻る電車の中で、美咲は窓の外を流れる景色を見ながら、ずっと考えていた。単なる修復ではだめだ。宗一郎の言う通り、この指輪を「もう一度輝かせる」ためには、新しい命を吹き込む必要がある。沙織と宗一郎の、引き裂かれた愛と、それでも消えなかった永遠の想いを、現代に蘇らせるようなデザイン。
それは、過去の模倣でも、流行の追随でもない。自分の内側から湧き上がる、本物の創造でなければならない。美咲は、久しぶりに胸が高鳴るのを感じていた。指輪はもはや、ただの金属と石ではなかった。それは、美咲自身の魂を試す、挑戦状そのものだった。
第三章:星降る夜の誓い
橘宗一郎との出会いを経て、美咲は生まれ変わったかのようだった。アトリエに籠り、寝食も忘れてデザインに没頭した。目の前にあるのは、単なるアンティークリングではない。それは、高遠沙織と橘宗一郎という二人の人間が生きた、愛と苦悩の結晶だった。
まず、美咲は指輪を徹底的に洗浄し、顕微鏡で細部まで観察することから始めた。長年蓄積された皮脂や汚れを取り除くと、ホワイトゴールドの地金は本来の白い輝きを取り戻した。しかし、ダイヤモンドの曇りは依然として晴れない。まるで、内側から深い霧に包まれているかのようだ。
美咲は、祖父が遺した工具箱を引っ張り出した。古い革のケースの中には、使い込まれて手に馴染んだヤスリやタガネ、ルーペが整然と並んでいる。その中に、祖父が手作りしたという、特殊な形状のピンセットを見つけた。先端が極めて細く、精密な作業に適したものだ。
「じいちゃん……力を貸して」
心の中で呟きながら、美咲はピンセットを手に取った。そして、もう一度、ダイヤモンドをルーペで覗き込んだ。その時、彼女は信じられないものを見た。
ダイヤモンドを固定している爪(プロング)の、ごく僅かな隙間。そこから、クォーツの内部に向かって、髪の毛よりも細い、糸のようなものが見えたのだ。最初はただの傷かと思った。しかし、角度を変えて光を当てると、それが人工的なものであることが分かった。
まさか……。
美咲の心臓が大きく脈打った。宗一郎は言っていた。「クォーツの中にダイヤモンドを閉じ込めるなんて、斬新なデザインだろう?」と。もしかしたら、このデザインには、まだ誰も知らない秘密が隠されているのではないか。
美咲は、意を決した。ダイヤモンドを一度、台座から外してみるしかない。それは、極めて高度な技術と集中力を要する作業だった。少しでも力を間違えれば、クォーツを傷つけ、指輪そのものを台無しにしてしまう危険性がある。
息を止め、祖父のピンセットを慎重に爪の隙間に差し込む。ミリ単位の力加減で、ゆっくりと爪を広げていく。額に汗が滲み、指先が微かに震える。まるで、時限爆弾を解除するような緊張感だった。
数十分にも感じられる時間が過ぎた後、カチリ、と小さな音を立てて、ダイヤモンドが台座から外れた。
美咲は、ピンセットでダイヤモンドをそっとつまみ上げる。すると、その下に、信じられないものが隠されていた。
それは、米粒の半分にも満たないほどの、極小のマイクロフィルムだった。先ほど見えた糸のようなものは、このフィルムを取り出すための、細い絹糸だったのだ。
震える手でフィルムを光にかざし、高倍率のルーペで覗き込む。そこには、インクが掠れた、手書きの文字が記されていた。
『星が降る夜、永遠を誓う』
宗一郎の字だ。美咲は直感した。プロポーズの夜、彼はこの言葉をフィルムに焼き付け、沙織への想いの象徴であるダイヤモンドの下に、密かに忍ばせたのだ。誰にも知られることのない、二人だけの秘密の誓い。
美咲は、涙が溢れて止まらなかった。沙織は、このメッセージの存在に気づいていたのだろうか。それとも、気づかぬまま、この指輪を生涯大切にし続けたのだろうか。どちらにせよ、この小さなフィルムは、二人の愛が本物であったことの、何よりの証だった。
ダイヤモンドの曇りの原因も、これで分かった気がした。この封じ込められた想いが、あまりに強く、切実で、石そのものに影響を与えていたのだ。まるで、涙の結晶のように。
美咲は、この「星降る夜の誓い」を、新しいデザインの核に据えることを決意した。沙織と宗一郎の物語を、ただ修復するのではなく、祝福し、未来へと繋げるデザイン。
スケッチブックに、鉛筆が踊るように走った。迷いはなかった。次々とアイデアが湧き上がってくる。
元のモーブッサンの、彫刻的で流麗なフォルムは最大限に尊重する。その上で、ダイヤモンドを支える石座(ベゼル)の内側に、全く新しい世界を創造するのだ。
美咲のデザインはこうだ。
まず、マイクロフィルムを劣化しないように特殊な樹脂でコーティングし、再びダイヤモンドの下、クォーツのドームの底にそっと戻す。そして、ダイヤモンドを留める石座の内側、通常は見えない部分に、プラチナで極めて繊細な透かし彫りを施す。そのモチーフは、満天の星空。大小様々な星が、天の川のように流れるデザインだ。
そうすることで、指輪を上から覗き込むと、透明なクォーツのドームを通して、ダイヤモンドが星空の中心で輝いているように見える。そして、さらに目を凝らすと、その星空の向こうに、あの秘密のメッセージ『星が降る夜、永遠を誓う』が、まるで夜空に浮かぶ星座のように、ぼんやりと浮かび上がる。
それは、持ち主だけが知ることのできる秘密。二人の愛の物語を、永遠に星空の中に封じ込めるというアイデアだった。
デザインは決まった。次は、それを形にする作業だ。美咲は、祖父の代から付き合いのある、腕利きの職人を訪ねた。彼女のデザイン画を見た老職人は、その発想の独創性と、それを実現するための技術的な難易度の高さに、驚きの声を上げた。
「お嬢さん、こりゃあ、とんでもねえ仕事だ。石座の内側に、こんな細かい透かし彫りを入れるなんて。しかも、クォーツを傷つけずにダイヤモンドを留め直すなんざ、神業だぜ」
「できますか?」
「……やるしかねえだろ。お前のじいさん、天野先生が見てござる。先生の名に恥じるような仕事はできねえからな」
そこから、美咲と老職人の、二人三脚での制作が始まった。美咲はアトリエに泊まり込み、ワックスで何度も原型を作り直した。老職人は、美咲が作った原型を元に、寸分の狂いもなくプラチナで星空を彫り上げていく。
その過程で、美咲は蓮に電話をかけた。フランスにいる彼に、最新のレーザー彫金技術について、いくつか専門的な質問をするためだった。
『なんだ、まだその古い指輪にこだわってるのか』
相変わらずの憎まれ口を叩きながらも、蓮は美咲の質問に的確に答え、さらにはヨーロッパでしか手に入らない特殊な工具の情報を教えてくれた。
「ありがとう、蓮。助かったわ」
『……別に。お前が中途半端なものを作って、日本のジュエリー界のレベルを下げられると迷惑なだけだ』
電話はすぐに切れたが、美咲は彼の不器用な優しさが分かっていた。ライバルでありながら、どこかでお互いの才能を認め合い、気にかけている。そんな不思議な関係だった。
数週間後、指輪はついに完成した。
完成品を手に取った美咲は、自分の目を疑った。それは、もはや単なるジュエリーではなかった。一つの完璧な小宇宙だった。
磨き上げられたホワイトゴールドのアームは、滑らかな銀河のように輝き、クォーツのドームは、まるで夜空の天蓋のようだ。そしてその中では、星々の透かし彫りに支えられたダイヤモンドが、以前とは比べ物にならないほど、強く、誇らしげな光を放っていた。まるで、長い眠りから覚め、再び愛を語り始めたかのように。
覗き込むと、星空の奥に、あの誓いの言葉が静かに浮かび上がる。
美咲は、このリデザインされたリングを『星降る夜の誓い』と名付けた。
第四章:時を超える輝き
完成した指輪を桐の箱に納め、美咲は再び鎌倉の橘邸を訪れた。あの日と同じように、宗一郎は潮風の匂いがする書斎で彼女を迎えた。
「……できたのかね」
宗一郎の声は、期待と不安で微かに震えていた。美咲は黙って頷き、彼の前に桐の箱を置いた。
宗一郎の皺の刻まれた指が、ゆっくりと蓋を開ける。そして、新しい命を吹き込まれた指輪を目にした瞬間、彼の時間が、再び動き出したのが分かった。
「……ああ」
彼の口から漏れたのは、感嘆とも、嗚咽ともつかない、深い息だった。彼は指輪を手に取ると、震える手でそれを光にかざした。
「輝いている……。沙織が愛した、あの頃のままの輝きだ。いや、それ以上だ……」
美咲は、指輪のデザインに込めた想いを、一つ一つ丁寧に説明した。石座の内側に彫り込んだ星空のこと。そして、ダイヤモンドの下に隠されていた、マイクロフィルムのメッセージのこと。
『星が降る夜、永遠を誓う』
その言葉を聞いた瞬間、宗一郎の目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。彼は、子供のように声を上げて泣いた。四十数年間、心の奥底に封じ込めてきた、後悔と、愛しさと、喪失の念が、一気に噴き出したかのようだった。
「気づいていてくれたのか……。沙織は、この言葉に気づいていてくれたのだろうか……」
「きっと、そうだと思います。言葉としてではなく、魂で。だからこそ、彼女はこの指輪を生涯手放さなかったのではないでしょうか」
美咲の言葉に、宗一郎は何度も何度も頷いた。彼は、指輪を自身の胸に強く抱きしめ、天を仰いだ。まるで、天国にいる沙織に、語りかけるかのように。
「ありがとう。天野さん。君はただ指輪を直してくれただけじゃない。私と沙織の、失われた時間を取り戻してくれた。この指輪は、これから私と共に、残りの人生を歩んでくれるだろう。君には、感謝してもしきれない」
宗一郎は、深々と頭を下げた。その顔には、長年の苦悩から解き放たれたような、穏やかな笑みが浮かんでいた。
この一件は、すぐに藤堂環の耳にも入った。彼女は、美咲の仕事ぶりに心から感嘆し、一つの提案をした。
「美咲さん、この『星降る夜の誓い』を、私の店で特別に展示させていただけないかしら。もちろん、橘監督の許可がいただければ、だけれど。この指輪の物語は、多くの人の心を打つはずよ。そして、あなたのデザイナーとしての名前を、世に知らしめる絶好の機会になるわ」
宗一郎は、藤堂の申し出を快く承諾した。「私と沙織の愛の証が、若い世代の誰かの心を温めることができるのなら、これ以上の喜びはない」と言って。
数週間後、『時の欠片』でささやかな発表会が開かれた。店の中心にあるガラスケースに、『星降る夜の誓い』は、スポットライトを浴びて静かに鎮座していた。その周りには、口コミで噂を聞きつけた業界関係者や、アンティークジュエリーの愛好家たちが集まっていた。
美咲は、少し離れた場所から、その光景を眺めていた。まだ、どこか夢見心地だった。自分の仕事が、これほど多くの人々の注目を集めていることが、信じられなかった。
その時、すっと隣に立つ気配がした。見ると、そこには黒いスーツをスタイリッシュに着こなした、西園寺蓮がいた。いつの間にか、フランスから帰国していたらしい。
「……蓮」
「来たぜ、お前の亡霊の展覧会に」
彼は相変わらずの皮肉な笑みを浮かべていたが、その目はまっすぐに、ガラスケースの中の指輪に注がれていた。彼はしばらくの間、食い入るように指輪を見つめていたが、やがて、深く長い溜息をついた。
「……降参だ」
ぽつりと、彼が呟いた。
「え?」
「降参だよ、天野。俺の負けだ。俺は、ジュエリーをただの美しい形でしか見ていなかった。流行や技術、素材の価値、そんなものばかりを追いかけていた。だが、お前が見ていたのは、その先にあるものだったんだな」
蓮は、初めて見るような、真剣な目で美咲を見つめた。
「この指輪には、魂がある。俺が今まで作ってきた、どの作品よりも、強く、深く、人の心を揺さぶる力がある。……物語、か。ようやく意味が分かったよ。お前の言っていた、『石ころの声』ってやつがな」
蓮は、少し悔しそうに、それでいてどこか晴れ晴れとした顔で笑った。
「見事だよ、美咲。お前は、本物のデザイナーだ」
ライバルからの、最高の賛辞。美咲の胸に、熱いものがこみ上げてきた。長かったスランプのトンネルを、ようやく抜け出すことができた。いや、この指輪が、自分をそこから連れ出してくれたのだ。
二人が見つめる先で、一組の若いカップルが、熱心に指輪を覗き込んでいた。
「すごいね、この指輪。星空の中に、メッセージが隠されてるなんて」
「なんだか、ロマンチック……。私たちも、結婚指輪をお願いするなら、こんな風に、二人だけの物語を込めたものにしたいな」
女性が、隣にいる美咲に気づき、声をかけた。
「あの、このリングをデザインされた、天野美咲先生ですよね? 私たち、先生のファンなんです! もしよろしければ、私たちのリングも、デザインしていただけませんか?」
美咲は、驚きながらも、まっすぐに二人を見つめ返した。そして、満面の笑みで頷いた。
「はい、喜んで」
自分の進むべき道が、はっきりと見えた瞬間だった。
エピローグ
それから五年後の、令和12年。
天野美咲は、日本を代表するジュエリーデザイナーの一人になっていた。彼女が立ち上げたブランド『Amano Misaki』は、一つ一つの作品に込められた深い物語性で、多くの人々の心を掴んでいた。銀座の一等地に構えられたアトリエには、彼女の才能を慕う若い職人たちが集まり、活気に満ち溢れていた。
ある晴れた秋の日、美咲はアトリエの窓辺で、若いデザイナーの卵たちに語りかけていた。
「いい、覚えておいて。ジュエリーは、ただの飾りじゃない。人の想いを繋ぎ、時を超える記憶の器なの。だから、あなたたちは石の声を聞きなさい。地金の温もりを感じなさい。そして何より、それを身につける人の人生に、物語に、寄り添うことを忘れないで」
彼女の言葉に、若者たちは真剣な眼差しで頷いている。
その美咲の左手の薬指には、一つの指輪が静かに輝いていた。
『星降る夜の誓い』。
橘宗一郎は、二年前に九十年の生涯を閉じた。彼は亡くなる直前、美咲を枕元に呼び、「この指輪は、君が持っていてくれ。私と沙織の物語を、未来に語り継いでくれるのは、君しかいない」と言って、彼女に指輪を託したのだった。
美咲は、指輪のクォーツをそっと撫でた。透明なドームの中で、ダイヤモンドが永遠の輝きを放っている。その奥には、星空と、あの誓いの言葉が、今も静かに息づいている。
それは、昭和の時代に生きた男女の、叶わなかった恋の証。
そして、一人のデザイナーが、迷いの森を抜け、自分の道を見つけるきっかけとなった、始まりの物語。
令和の空の下で、その小さな宇宙は、時を超えた愛の輝きを放ちながら、これからも静かに、新しい物語が紡がれるのを待っている。美咲の指先で、温かい光を宿しながら。